我が家の流儀
『我が家の流儀 ~藤原家の闘う子育て~』 藤原 美子 集英社文庫
9月に「遥かなるケンブリッジ」を紹介した藤原正彦氏の奥様の書いたエッセイです。図書館の本棚でたまたま見つけたので読んで見ることにしました。
藤原正彦氏との出会いから始まって、このケンブリッジでの子ども達との生活や、帰国してからの学校やPTAとの闘い、正義感の強い藤原正彦氏の性格がまたしても浮き彫りになってくる学校の方針との闘い、藤原美子氏が学校にした提案が校長先生の意向でまったく取り合ってくれなかったり、子どもたちを育てるとは、どういうことなのかを考えさせられる1冊です。
昨今の学校教育を考えてみるに、小学校の全国一斉テストの結果を公表するかしないかでもめていたり、世界レベルの学力テストでアジア圏の国よりも日本が悪い結果がでていると報道されていたり、教育だけでなく、子供たちの体力測定の結果でも戦後ずーと伸びてきたのが、最近は体力が減少しつつあるなど、あまり良くない方向に行っているように感じる。
高度成長期が終って久しいが、成長期では、社会の生産が均一の物を大量に生産して、いかに安く作るかが問われていた。その高度成長期も終わり、さらに土地と金融のバブルもハジケた低成長、長期停滞期間。そんな中の1994年1月から1998年12月に書かれたものを編集されたのが本書である。
本書は次の5章に編集されている。
第一章 異なる文化との出会い 結婚から出産
第二章 一家五人のイギリス生活
第三章 三人の息子と私
第四章 学校やPTAと向き合う
第五章 たくましく、情緒豊かに
第四章の”「公平」で失われた感激”から引用してみよう。
秀れたものを秀れているとわからせないシステム
どうも我々の心の中には、何につけ皆が同じであれば安心するという心理作用が
あるようだ。しかし、子供たちは一人一人異なり得手不得手も違う。ある子は図工
が大変上手であったり、またある子は算数の計算がやたら速かったりする。全員が
同じような能力を備えていることなどあり得ない。にもかかわらず、現在の学校で
は特定の分野に秀でた子を積極的に評価することは少ないようだ。
たとえば運動会がいい例である。私は運動会の種目の中でとりわけ徒競走が好き
だ。ときどきけたはずれに速い子が現れ、一人抜き二人抜きすることがある。その
目の醒めるような走りっぷりはまさに一服の清涼剤である。普段、あまり授業中に
は目立たないような子がその日に限ってきらきら光を放ち、全身、躍動感に満たさ
れている。なんとも言えず素晴らしい光景である。
しかし、運動会は変わってしまった。五十メートル走、百メートル走などで、と
びぬけて先を走る子がいなくなったのである。速い子がいなくなったわけではない。
組み合わせがタイム順となったからである。遅い子は遅い子どうし、速い子は速い
子どうし走るため差はほとんどつかない。ストップウォッチを持たない私たちには、
どのくらい差をつけて先を走っているかといった一目瞭然な判定基準がないとその
速さはつかめない。リレーの選手に選ばれるような子供たちの組でも、全員がほぼ
一直線に並んで走っていればそのすごさはよくわからないのである。
・・中略・・
個の特異性を認め、伸ばす環境とは?
イギリスの小学校は、その点まったく不公平だった。授業は黒板に向かってのい
っせい授業という形式を取らない。自習を中心とし、わからないことがあれば先生
がまわって指導するという形であった。また毎日の自習内容はそれぞれの子供の能
力や進み具合により異なっていた。
算数はドリル1からドリル8にいくにつれ、レベルが上がる。算数の得意な子は
どんどん先に進むし、そうでない子はゆっくりレベル1や2を解いている。国語の
本も、語彙のやさしいものからむずかしいものまで教室の書棚にレベルごとに色分
けされて並んでおり、生徒のレベルに合わせて先生が選び与える。皆が同じものを
学習していることはない。子供の能力により、まったくカリキュラムが違うのであ
る。
もしこれを日本で行えば、親は子供がどのレベルにいるか気にかかり、一刻でも
早く上のステップへ上がるように子供の尻をたたくかもしれない。しかしイギリス
の親はいっこうにそんなことには頓着しないように見受けられた。人により能力も
個性も興味も違うのだから、皆が同じことを同じように学ぶほうがおかしいと思っ
ているのだろう。
日本では個性教育などとうたわれながら、個性を育てる教育はどれほどなされて
いるのだろうか。個性を育てるには、まず子供一人一人の個性や能力を認めること
である。その個性を明確に評価し励ます姿勢がなければいけない。それをせず、皆
をひたすら横並びにしようとする擬公平主義のもとでは、自らの個性に気づくこと
も、それを育てることもむずかしい。大学生になっても、将来、何をやりたいのか
わからない者が多いと聞くが、それは無理からぬことだと思う。
日本の教育システムは、それなりに機能しているとは思うが、個性尊重とは言っても皆が一つのゴールに向かっているだけではいけない時代になってきている。それぞれのゴールがあって、それらのゴールを目指すにはどうしたら良いのかの基本的な姿勢、取り組み方を学べるシステムにしていかなければいけないと思う。進学校、中高一貫の学校が人気で、それ以外の普通の学校がダメという事はないはず。テレビでは高校野球ばかりが放送されているが、毎年顔を見せる学校に野球の好きな子が集まりその学校は更に強くなっていく。春になると雑誌は、東大合格率の高い高校はどこだとか、会社社長の出身校ランキングみたいなのを掲載している。良い悪いはあるだろうが、それらに乗せられて子供たちを育てのではなく、子供たち自身が何をしたいのか、何になりたいのかを、広い世界のなかから選択していけるように育てていきたいものだ。
そうは言っても、芸術家になった人たちの話を聞くと3歳の頃からやってました。みたいな事をよく聞くので、子供たちが自分で選んだ道かも知れないが、その前に選択されてしまっている環境が、子供たちの将来に与える影響は大きいのだと思う。
そのへんのところが、三つ子の魂百までといわれる所以なのだと思う。
日本の学校教育は、どっちに向かっているのだろうか?平均的に優れた人材を平均的に育てたいのか? 一部分の優秀な才能を持ったあらゆる種類の人材を育てたいのか?戦後を引っ張ってきたのは前者の教育だろう。今後の少子高齢化社会に必要なのは後者の教育ではないかと思う。その教育を受けた子供たちが新しいイノベーションを興して、さらに豊かな社会を作っていくのではないだろうか?
9月に「遥かなるケンブリッジ」を紹介した藤原正彦氏の奥様の書いたエッセイです。図書館の本棚でたまたま見つけたので読んで見ることにしました。
藤原正彦氏との出会いから始まって、このケンブリッジでの子ども達との生活や、帰国してからの学校やPTAとの闘い、正義感の強い藤原正彦氏の性格がまたしても浮き彫りになってくる学校の方針との闘い、藤原美子氏が学校にした提案が校長先生の意向でまったく取り合ってくれなかったり、子どもたちを育てるとは、どういうことなのかを考えさせられる1冊です。
昨今の学校教育を考えてみるに、小学校の全国一斉テストの結果を公表するかしないかでもめていたり、世界レベルの学力テストでアジア圏の国よりも日本が悪い結果がでていると報道されていたり、教育だけでなく、子供たちの体力測定の結果でも戦後ずーと伸びてきたのが、最近は体力が減少しつつあるなど、あまり良くない方向に行っているように感じる。
高度成長期が終って久しいが、成長期では、社会の生産が均一の物を大量に生産して、いかに安く作るかが問われていた。その高度成長期も終わり、さらに土地と金融のバブルもハジケた低成長、長期停滞期間。そんな中の1994年1月から1998年12月に書かれたものを編集されたのが本書である。
本書は次の5章に編集されている。
第一章 異なる文化との出会い 結婚から出産
第二章 一家五人のイギリス生活
第三章 三人の息子と私
第四章 学校やPTAと向き合う
第五章 たくましく、情緒豊かに
第四章の”「公平」で失われた感激”から引用してみよう。
秀れたものを秀れているとわからせないシステム
どうも我々の心の中には、何につけ皆が同じであれば安心するという心理作用が
あるようだ。しかし、子供たちは一人一人異なり得手不得手も違う。ある子は図工
が大変上手であったり、またある子は算数の計算がやたら速かったりする。全員が
同じような能力を備えていることなどあり得ない。にもかかわらず、現在の学校で
は特定の分野に秀でた子を積極的に評価することは少ないようだ。
たとえば運動会がいい例である。私は運動会の種目の中でとりわけ徒競走が好き
だ。ときどきけたはずれに速い子が現れ、一人抜き二人抜きすることがある。その
目の醒めるような走りっぷりはまさに一服の清涼剤である。普段、あまり授業中に
は目立たないような子がその日に限ってきらきら光を放ち、全身、躍動感に満たさ
れている。なんとも言えず素晴らしい光景である。
しかし、運動会は変わってしまった。五十メートル走、百メートル走などで、と
びぬけて先を走る子がいなくなったのである。速い子がいなくなったわけではない。
組み合わせがタイム順となったからである。遅い子は遅い子どうし、速い子は速い
子どうし走るため差はほとんどつかない。ストップウォッチを持たない私たちには、
どのくらい差をつけて先を走っているかといった一目瞭然な判定基準がないとその
速さはつかめない。リレーの選手に選ばれるような子供たちの組でも、全員がほぼ
一直線に並んで走っていればそのすごさはよくわからないのである。
・・中略・・
個の特異性を認め、伸ばす環境とは?
イギリスの小学校は、その点まったく不公平だった。授業は黒板に向かってのい
っせい授業という形式を取らない。自習を中心とし、わからないことがあれば先生
がまわって指導するという形であった。また毎日の自習内容はそれぞれの子供の能
力や進み具合により異なっていた。
算数はドリル1からドリル8にいくにつれ、レベルが上がる。算数の得意な子は
どんどん先に進むし、そうでない子はゆっくりレベル1や2を解いている。国語の
本も、語彙のやさしいものからむずかしいものまで教室の書棚にレベルごとに色分
けされて並んでおり、生徒のレベルに合わせて先生が選び与える。皆が同じものを
学習していることはない。子供の能力により、まったくカリキュラムが違うのであ
る。
もしこれを日本で行えば、親は子供がどのレベルにいるか気にかかり、一刻でも
早く上のステップへ上がるように子供の尻をたたくかもしれない。しかしイギリス
の親はいっこうにそんなことには頓着しないように見受けられた。人により能力も
個性も興味も違うのだから、皆が同じことを同じように学ぶほうがおかしいと思っ
ているのだろう。
日本では個性教育などとうたわれながら、個性を育てる教育はどれほどなされて
いるのだろうか。個性を育てるには、まず子供一人一人の個性や能力を認めること
である。その個性を明確に評価し励ます姿勢がなければいけない。それをせず、皆
をひたすら横並びにしようとする擬公平主義のもとでは、自らの個性に気づくこと
も、それを育てることもむずかしい。大学生になっても、将来、何をやりたいのか
わからない者が多いと聞くが、それは無理からぬことだと思う。
日本の教育システムは、それなりに機能しているとは思うが、個性尊重とは言っても皆が一つのゴールに向かっているだけではいけない時代になってきている。それぞれのゴールがあって、それらのゴールを目指すにはどうしたら良いのかの基本的な姿勢、取り組み方を学べるシステムにしていかなければいけないと思う。進学校、中高一貫の学校が人気で、それ以外の普通の学校がダメという事はないはず。テレビでは高校野球ばかりが放送されているが、毎年顔を見せる学校に野球の好きな子が集まりその学校は更に強くなっていく。春になると雑誌は、東大合格率の高い高校はどこだとか、会社社長の出身校ランキングみたいなのを掲載している。良い悪いはあるだろうが、それらに乗せられて子供たちを育てのではなく、子供たち自身が何をしたいのか、何になりたいのかを、広い世界のなかから選択していけるように育てていきたいものだ。
そうは言っても、芸術家になった人たちの話を聞くと3歳の頃からやってました。みたいな事をよく聞くので、子供たちが自分で選んだ道かも知れないが、その前に選択されてしまっている環境が、子供たちの将来に与える影響は大きいのだと思う。
そのへんのところが、三つ子の魂百までといわれる所以なのだと思う。
日本の学校教育は、どっちに向かっているのだろうか?平均的に優れた人材を平均的に育てたいのか? 一部分の優秀な才能を持ったあらゆる種類の人材を育てたいのか?戦後を引っ張ってきたのは前者の教育だろう。今後の少子高齢化社会に必要なのは後者の教育ではないかと思う。その教育を受けた子供たちが新しいイノベーションを興して、さらに豊かな社会を作っていくのではないだろうか?
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