『時を駆ける美術』
『時を駆ける美術』 森村 泰昌 知恵の森文庫
4月6日から始まったマネの美術展がちょっと気になっている。そんなことを考えながら書棚を見ていたら見つけたのが本書だ。
美術特に絵画を中心に紹介している本ではあるが、その美術を観て森村氏が何を感じたか、どう考えたか、また、何を考えていたらこの絵を思い出したのかなどなど、色んな感じ方が書かれている。教科書的な画一的な解釈は何もない。ただ森村氏の個性とそれぞれの作品が出会って生れてきたものが現されている。
そんな森村氏はこう書いている。
<b>美術はつながりであるb>
ウチの近所の高校では、芸術科目は選択性になっている。
殺到するのは「音楽」である。「音楽」志望者があふれ、しかたなく抽選にな
る。はずれた者は、「音楽」以外に振り分けられる。かつて私の実家の東隣の家
の高校一年生が、「音楽」をとれず「美術」になってしまったと嘆いていた。
気持ちはわかる。しかし、「音楽」と「美術」を分けてしまう教育制度は、理
念ではなく、学校の都合でできているような気がする。
「展覧会の絵」という組曲がある。音楽家ムソルグスキーが、友人の画家の遺作
展で見た絵の数々を、音楽に置き換えたものである。ここでは、絵は見るものか
ら聴くものへと変わる。
ウォルト・ディズニーはアニメ「ファンタジア」のなかで、組曲「展覧会の
絵」を、今度はアニメにした。つまり聴くことから見ることへと、いわば先祖返
りさせている。
本来このように「見る」と「聴く」は行ったり来たりできる親密な間柄なので
ある。
このような親密な関係は、美術と音楽の間だけでなく、美術とそれ以外のさま
ざまな人間の営みの間にも見いだせるはずである。
バチカン宮殿にある巨大な壁画「アテネの学堂」(ラファエロ作)には、さま
ざまな人物が登場する。
むかって左手前には、数学者ピタゴラス、右手前には幾何学者エウクレイデス
(ユークリッド)。
エウクレイデスの後方、後ろ向きで球体を手に持つのは、宇宙を研究している
プトレマイオス。
中央前景の階段に腰をかけ、考え込んでいるのは哲学者ヘラクレイトス。画面
の中央で会話を交わしているのは、むかって右がアリストテレス、その左の頭の
はげた人物がプラトンである。
画面後方の両端に位置する像は、詩と音楽の神アポロと、知恵と学問の神ミネ
ルバである。
「アテネの学堂」では、美術が唯我独尊状態にはなっていない。哲学、数学、科
学、文学、音楽と、さまざまな要素の総合隊として美術が成立している。人間の
あらゆる営みを抱え持つことなしには美術もありえぬことを、この壁画は教えて
くれる。
早い話、ピタゴラスがどんなひとだかわかっているほうが、「アテネの学堂」
はずっとおもしろく感じられるわけである。
以上は美術にかぎった話ではない。音楽も、数学も文学も、そしてスポーツも、
見知らぬ者同士ではなく、みんなつながりを持っているはずだ。手と足がばらば
らに動くようでは、人間の営みもうまくいかない。原理はそれとまったく変わら
ない。
高校の科目の話は、小生がいっていた高校も同じであった、地方の普通科高校ではあるが、芸術科目は週に1回しかなかったような気がする。1回2コマ分だったようにも思うがもうかなり前のことなので、よく憶えていない。小生は工芸を取った。いまその学校で誰が教師をしているのか知らないが、当時の工芸の講師は、「工芸は男子のみ」ということであった。工芸をやりたかった女子もいただろうが、ガンとして譲らなかったようだ。その後、社会でも男女雇用機会均等法が施行されて、どうなっているだろうか?
さて、森村氏の芸術のつながりの話であるが、なかなかいい所をついている。インターネットの世界も最初は文字だけでメール文書の交換(文学)から始まって、次には文字に修飾がついた飾り文字や記号みたいなものになって、画像(言うならば絵画)が入るようになって、音もでるようになって(音楽)、そして今では動画(映画)が幅を利かすようになってきた。その一方で、個人が情報を発信する場は、Webページからもっと手軽なブログになって、今では、更に手軽なツイッター(文字だけ?)に
戻りつつある。いろいろなものが融合しながら進化していくのは科学も芸術も同じだ。
科学の分野では小生が紹介した「ポアンカレ予想」にも書いたとおりだ。
先日、NHKの日曜美術館にチャンネルを合わせたら「森村泰昌の創作現場」をやっていた。「時を駆ける美術」を読んだ後だったので、この本に紹介されていたセルフ・ポートレイトをどうやって作っているのかなどがわかって面白かった。またこの番組で写真だけでなく映像作品もあることを知った。
4月6日から始まったマネの美術展がちょっと気になっている。そんなことを考えながら書棚を見ていたら見つけたのが本書だ。
美術特に絵画を中心に紹介している本ではあるが、その美術を観て森村氏が何を感じたか、どう考えたか、また、何を考えていたらこの絵を思い出したのかなどなど、色んな感じ方が書かれている。教科書的な画一的な解釈は何もない。ただ森村氏の個性とそれぞれの作品が出会って生れてきたものが現されている。
そんな森村氏はこう書いている。
<b>美術はつながりであるb>
ウチの近所の高校では、芸術科目は選択性になっている。
殺到するのは「音楽」である。「音楽」志望者があふれ、しかたなく抽選にな
る。はずれた者は、「音楽」以外に振り分けられる。かつて私の実家の東隣の家
の高校一年生が、「音楽」をとれず「美術」になってしまったと嘆いていた。
気持ちはわかる。しかし、「音楽」と「美術」を分けてしまう教育制度は、理
念ではなく、学校の都合でできているような気がする。
「展覧会の絵」という組曲がある。音楽家ムソルグスキーが、友人の画家の遺作
展で見た絵の数々を、音楽に置き換えたものである。ここでは、絵は見るものか
ら聴くものへと変わる。
ウォルト・ディズニーはアニメ「ファンタジア」のなかで、組曲「展覧会の
絵」を、今度はアニメにした。つまり聴くことから見ることへと、いわば先祖返
りさせている。
本来このように「見る」と「聴く」は行ったり来たりできる親密な間柄なので
ある。
このような親密な関係は、美術と音楽の間だけでなく、美術とそれ以外のさま
ざまな人間の営みの間にも見いだせるはずである。
バチカン宮殿にある巨大な壁画「アテネの学堂」(ラファエロ作)には、さま
ざまな人物が登場する。
むかって左手前には、数学者ピタゴラス、右手前には幾何学者エウクレイデス
(ユークリッド)。
エウクレイデスの後方、後ろ向きで球体を手に持つのは、宇宙を研究している
プトレマイオス。
中央前景の階段に腰をかけ、考え込んでいるのは哲学者ヘラクレイトス。画面
の中央で会話を交わしているのは、むかって右がアリストテレス、その左の頭の
はげた人物がプラトンである。
画面後方の両端に位置する像は、詩と音楽の神アポロと、知恵と学問の神ミネ
ルバである。
「アテネの学堂」では、美術が唯我独尊状態にはなっていない。哲学、数学、科
学、文学、音楽と、さまざまな要素の総合隊として美術が成立している。人間の
あらゆる営みを抱え持つことなしには美術もありえぬことを、この壁画は教えて
くれる。
早い話、ピタゴラスがどんなひとだかわかっているほうが、「アテネの学堂」
はずっとおもしろく感じられるわけである。
以上は美術にかぎった話ではない。音楽も、数学も文学も、そしてスポーツも、
見知らぬ者同士ではなく、みんなつながりを持っているはずだ。手と足がばらば
らに動くようでは、人間の営みもうまくいかない。原理はそれとまったく変わら
ない。
高校の科目の話は、小生がいっていた高校も同じであった、地方の普通科高校ではあるが、芸術科目は週に1回しかなかったような気がする。1回2コマ分だったようにも思うがもうかなり前のことなので、よく憶えていない。小生は工芸を取った。いまその学校で誰が教師をしているのか知らないが、当時の工芸の講師は、「工芸は男子のみ」ということであった。工芸をやりたかった女子もいただろうが、ガンとして譲らなかったようだ。その後、社会でも男女雇用機会均等法が施行されて、どうなっているだろうか?
さて、森村氏の芸術のつながりの話であるが、なかなかいい所をついている。インターネットの世界も最初は文字だけでメール文書の交換(文学)から始まって、次には文字に修飾がついた飾り文字や記号みたいなものになって、画像(言うならば絵画)が入るようになって、音もでるようになって(音楽)、そして今では動画(映画)が幅を利かすようになってきた。その一方で、個人が情報を発信する場は、Webページからもっと手軽なブログになって、今では、更に手軽なツイッター(文字だけ?)に
戻りつつある。いろいろなものが融合しながら進化していくのは科学も芸術も同じだ。
科学の分野では小生が紹介した「ポアンカレ予想」にも書いたとおりだ。
先日、NHKの日曜美術館にチャンネルを合わせたら「森村泰昌の創作現場」をやっていた。「時を駆ける美術」を読んだ後だったので、この本に紹介されていたセルフ・ポートレイトをどうやって作っているのかなどがわかって面白かった。またこの番組で写真だけでなく映像作品もあることを知った。
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