『島耕作に知る 「いい人」をやめる男の成功哲学』
『島耕作に知る 「いい人」をやめる男の成功哲学』 弘兼 憲史 講談社+α文庫
サラリーマン漫画の島耕作シリーズを書いた弘兼氏のエッセイ。
「いい人」を演じていても、面白い人生は生まれない。著者はこういう、
結局、ほんとうの自分とか自分探しの対象となる自分は、何かに夢中になっている
自分だ。夢中になれることが幸せなのだ。
たとえ社長になれても夢中になれなければ、それは探している自分ではない。
夢中になれる自分とは、個性をうまく表せる自分だ。「いい人」にはそれがない。
平均値がそのままあてはまってしまう。「いい人」は自分を単純化しすぎていないか
と書いたが、周囲はその単純明快さに安心する。わかりやすい人はつき合いやすいか
らだ。
自分が夢中になれるかなれないかではない。世間がいいと言えば、それでいい。世
間が褒めてくれれば自分もその気になる。実に明快だが単純すぎる。
「いい人」という評価は周囲がするわけだから、周りがいちばん理解できるのは、ア
イツはオレと同じだと思わせることだろう。何かに夢中になるのは、他人にはわから
ない自分の中の気持ちだから、周囲には一層わかりにくい。
平均的な人ならば、周囲からも理解されやすい。でも平均的なら、そこに存在する必要はあまりない。平均的な人は居てもいなくても結局全体の平均は変わらないから存在している価値が少ないということになる。少しでも違っている所があれば、その違いに焦点をあてて議論をすることができ、その違いを認め合って新しいものを生み出すことができる。
だから、著者は、30%くらいは闇の部分を持った方がいいという。その30%は、他人からみるとすぐには理解できない闇の部分として持つ。それが個性になる。
人には、部下を求める心理があるという。
…… けれどもいま書いた部下を求める心理を説明
するとき、どうしても頭に浮かんでくるイメージがある。何かの本で読んだときから
そのイメージが消えない。それは、彼らがなぜ犬を飼うかということだ。
どんな社会的弱者であっても、人間はやっぱり「部下」を求める。自分の言いなり
になる人間をそばに置きたくなる。無抵抗な「いい人」を求めてしまう。差別はそこ
から始まるんじゃないか。
でも白を黒と言い換えるのが間違いなように、差別も完全な間違いだ。「いい人」
を自分の足下に置こうという気持ちも間違いだ。「こいつだけは」という気持ちを相
手に持つのも間違いだ。
「飼い犬」にいきなり手を咬まれて泣き出すよりも、ふだんから本音をぶつけてくる
「部下」こそ大事にすべきだろう。
「部下」とは決して見下す存在ではない。彼もまた、一本の牙を隠し持っている。だ
から真剣につき合えるのだ。「いい人」を部下に求めるのは、態度としてあまりに不
遜だと知るべきだ。
トップがイエスマンばかり部下に集めてしまうと、間違った方向に向かってしまったときに、それを正す人がいなくなってしまう。組織的な不正というのは、そういう組織におきやすいのではないだろうか?イエスという人と、ノーという人が適度にいて、その調和を取ったり、幾分の調整をしてどちらかに寄せることによって最悪の選択は避けられる。
小生は、ガンバレという言葉は好きではない。漢字で書くと「頑張る」なのだが、我を張るというイメージで人のことはおかまいなく自分を押し出していくという気がするからだ。
「いい人」は気安く「ガンバレ」と言う。
でも「いい人」だってガンバレと言われて反撥したことがあったはずだ。「慰めな
んか言うな」と内心では怒ったことがあったはずだ。それなのに、他人には同じ言葉
をかけてしまう。
これも結局、さっき書いた「自分がいやなことを相手に押しつけている」ことだ。
ガンバレのひと言が少しも人の心を動かさないと知りながら、善意を装おうとするか
らこうなる。
……
不良社員は「ガンバレ」なんて言わない。力を貸せないときには黙って見守るか、
放っておく。それがいちばん、がんばっている人間にとっての励ましになると知って
いるのだ。
平常どおり、普通に接してくれる、何も特別なことがなかったかのように、早く忘れたいのであれば、なおさらそう願っているはずだ。
それでも、応援してもらいたいスポーツの場では、ガンバレという言葉が励ましになるのかもしれない。
サラリーマン漫画の島耕作シリーズを書いた弘兼氏のエッセイ。
「いい人」を演じていても、面白い人生は生まれない。著者はこういう、
結局、ほんとうの自分とか自分探しの対象となる自分は、何かに夢中になっている
自分だ。夢中になれることが幸せなのだ。
たとえ社長になれても夢中になれなければ、それは探している自分ではない。
夢中になれる自分とは、個性をうまく表せる自分だ。「いい人」にはそれがない。
平均値がそのままあてはまってしまう。「いい人」は自分を単純化しすぎていないか
と書いたが、周囲はその単純明快さに安心する。わかりやすい人はつき合いやすいか
らだ。
自分が夢中になれるかなれないかではない。世間がいいと言えば、それでいい。世
間が褒めてくれれば自分もその気になる。実に明快だが単純すぎる。
「いい人」という評価は周囲がするわけだから、周りがいちばん理解できるのは、ア
イツはオレと同じだと思わせることだろう。何かに夢中になるのは、他人にはわから
ない自分の中の気持ちだから、周囲には一層わかりにくい。
平均的な人ならば、周囲からも理解されやすい。でも平均的なら、そこに存在する必要はあまりない。平均的な人は居てもいなくても結局全体の平均は変わらないから存在している価値が少ないということになる。少しでも違っている所があれば、その違いに焦点をあてて議論をすることができ、その違いを認め合って新しいものを生み出すことができる。
だから、著者は、30%くらいは闇の部分を持った方がいいという。その30%は、他人からみるとすぐには理解できない闇の部分として持つ。それが個性になる。
人には、部下を求める心理があるという。
…… けれどもいま書いた部下を求める心理を説明
するとき、どうしても頭に浮かんでくるイメージがある。何かの本で読んだときから
そのイメージが消えない。それは、彼らがなぜ犬を飼うかということだ。
どんな社会的弱者であっても、人間はやっぱり「部下」を求める。自分の言いなり
になる人間をそばに置きたくなる。無抵抗な「いい人」を求めてしまう。差別はそこ
から始まるんじゃないか。
でも白を黒と言い換えるのが間違いなように、差別も完全な間違いだ。「いい人」
を自分の足下に置こうという気持ちも間違いだ。「こいつだけは」という気持ちを相
手に持つのも間違いだ。
「飼い犬」にいきなり手を咬まれて泣き出すよりも、ふだんから本音をぶつけてくる
「部下」こそ大事にすべきだろう。
「部下」とは決して見下す存在ではない。彼もまた、一本の牙を隠し持っている。だ
から真剣につき合えるのだ。「いい人」を部下に求めるのは、態度としてあまりに不
遜だと知るべきだ。
トップがイエスマンばかり部下に集めてしまうと、間違った方向に向かってしまったときに、それを正す人がいなくなってしまう。組織的な不正というのは、そういう組織におきやすいのではないだろうか?イエスという人と、ノーという人が適度にいて、その調和を取ったり、幾分の調整をしてどちらかに寄せることによって最悪の選択は避けられる。
小生は、ガンバレという言葉は好きではない。漢字で書くと「頑張る」なのだが、我を張るというイメージで人のことはおかまいなく自分を押し出していくという気がするからだ。
「いい人」は気安く「ガンバレ」と言う。
でも「いい人」だってガンバレと言われて反撥したことがあったはずだ。「慰めな
んか言うな」と内心では怒ったことがあったはずだ。それなのに、他人には同じ言葉
をかけてしまう。
これも結局、さっき書いた「自分がいやなことを相手に押しつけている」ことだ。
ガンバレのひと言が少しも人の心を動かさないと知りながら、善意を装おうとするか
らこうなる。
……
不良社員は「ガンバレ」なんて言わない。力を貸せないときには黙って見守るか、
放っておく。それがいちばん、がんばっている人間にとっての励ましになると知って
いるのだ。
平常どおり、普通に接してくれる、何も特別なことがなかったかのように、早く忘れたいのであれば、なおさらそう願っているはずだ。
それでも、応援してもらいたいスポーツの場では、ガンバレという言葉が励ましになるのかもしれない。
この記事へのコメント