『完全なる経営』
『完全なる経営』 アブラハム・マズロー 日本経済新聞社
マズローの欲求の5段階というのは、かなり有名になっていると思われる。
そのマズローの文献を集めて、さらに、マズローに関係の深い学者の言葉を集めたのが本書である。
なかなか読みにくい難解な文章でかつ分厚く400頁を超える本だったので、読み終わるのに1ヵ月近くかかった。
ちゃんと理解するには何度も読み返してみないといけなさそうなので、気になったフレーズを少しだけ引用しておこう。
これはマズローが書いた部分ではないのだが
アンドリュー・ケイがマグレガーをマズローに引き合わ
せたのは1960年のことであった。ケイがわれわれに語ったところによると、彼はボストンのマズロー
宅を訪問中、マズローとマグレガーが一面識もないことを知ったのだという。二人が進歩的経営管理をテ
ーマに1年近くも文通を続けていながら、いまだに顔を合わせていないということがケイには意外に思え
た。「私はエイブの顔を見据え、コートを取ってきて車に乗るよう言いました。それから二人でマサチューセッツ工科大学
のマグレガーの研究室に向かったのです」と、ケイはそのときの様子を語っている。
その日が二人の大いなる論争の始まりであった。鏡に映った自分の姿を見つめ、以下の質問を自らに問
え--二人は亡くなるまで、すべてのリーダーたちに、こう訴え続けたのである。これらの質問事項は半
世紀も前に考案されたものであるが、いまでもリーダーが第一に考慮すべき点であることに変わりはない。
一、人間は信頼に値すると信じているか。
二、人間は責任や義務を担おうとするものであると信じているか。
三、人間は仕事に意義を求めると信じているか。
四、人間は生まれながらに学習意欲をもっていると信じているか。
五、人間は変わることに抵抗しないが、変えられることには抵抗すると信じているか。
六、人間は怠惰よりも働くことを好むと信じているか。
以上の質問に対する回答結果が、回答者のあらゆる行動に影響を及ぼしているのである。われわれは何
人もの企業幹部に、これらの質問をぶつけてみた。その結果、多くの人が自分の人間観を充分時間をかけ
て検討したことがないという、驚くべき事実が判明したのである。
企業の経営者の人間観、それが経営の方向を決めるので、そこを深く追求しておかなければいけない。
ということのようである。ワンマン経営ならなおさらそうであろうが、ワンマン経営でなくても、組織をどう形作るかを考えた時に考え方が同じ方向を向いている人間を集めることになるのではないだろうか。
このマグレガーとマズローに関する記述が別の所にもある。
マグレガーは人間に対する見方を二つに大別し、それぞれをX理論、Y理論という言葉で呼んだ。実は、
彼のこの考え方の基礎となったのがマズローの欲求階層説であった。マズローの理論はマグレガーの研究
によって広く知られるようになった、と言う者も多い。マズローは手記の至る所でマグレガーに言及して
いる。
……
マグレガー自身、次のように述べている。「どのような方法で人間を管理するのが最も効果的だと仮定し
ているか(暗黙の仮定も含む)。これが経営トップに対する最も重要な問いかけである。経営陣がどのよう
な仮定に立って人材を管理しているかで、企業の性格が決まるのである」
読者の仮定は、以下のどちらだろうか。
一、ふつうの人間は、働くことよりも働かないことの方を好む。管理者や組織は、こうした人間を統制し、
指示を下し、それ相応の働きをするよう管理しなければならない。彼らは指示されることを好み、仕事に
関しては何よりも安全性を求めている。彼らには、野心も偉大なことを成しとげようという欲求も備わっ
ていない。
二、ふつうの人間にとって、仕事は休息や遊びと同じく自然なものであり、皆働くことを望んでいる。や
りがいのある目標だと思えば、たいていの人間は自己統制しつつ自発的に仕事に取り組み、積極的に責任
を引き受けようとする。彼らのひたむきな態度は恐れからくるものではなく、報酬、とりわけ達成感や自
己実現といった目に見えない報酬によって導かれたものである。平均的な人間には、未開発の創造性や独
創性が大いに備わっている。
一と二は、それぞれマグレガーがX理論、Y理論と名付けた仮定に相当する。
……
したがって、マズローやマグレガーの理論に賛同する者にとっての課題は、人々を動機づけることでは
なく、動機づけられた人々が最大限の貢献をしようと進んで努力するよう、環境を整えることである。組
織の方針や業務手順の見直しが、その第一歩となるだろう。それらは、われわれの人間観がどのようなも
のであるかを雄弁に物語っているのだ。
X理論で統治されている企業で、フレックスタイム制を導入すると、どうなるか?
皆、それまで定時とされていた時間には出社せず、どんどん遅い時間に出社するようになって、マネージメントは、「どうすれば、定時には皆が会社に来ているようになるのか?」を議論するようになる。
Y理論で統治されている企業では、そもそもそんな議論は必要ない。皆、働きたいだけ働いて実績を残しているのであるから、そこは論点ではなくなる。
人々は、相手のことを思っていろいろ忠告をする場面がある。マズローはこんなことを言っている。
…… 認めるべきことや否認すべきことがあれば、そのことを自由に表明することこそ愛情表現であ
り、兄弟姉妹に対する義務である。私の唱える健康心理学の中でも、このことを明確に主張していくつもり
だ。つまり、啓発されて進歩的な人間は、どんな相手--特に子供--に対しても、これをやってくれて嬉
しかった、あれはすばらしかった、あの行動は良くなかった、あんなことをするとはがっかりだ。残念に思
う。というような意見を自由かつ正直に述べるということだ。
……
アメリカでは、このような態度でひとに接することはほとんどない。ひとを批判するのは自分が怒ったと
きだけだ。相手を批判し、フィードバックを与え相手に内省しなおしてもらう義務というものは、通常、愛
の範疇に入っていないのである。だが、この考え方は改めるべきだろう。面白いことに、耳に痛いフィード
バックが行えるようになると、フィードバックの与え手と受け手双方の愛情が増すのである。遠慮のないフ
ィードバックを受けた者は、しばらくの間傷つくかもしれない。だが、結果的にはそのフィードバックに助
けられ、感謝せずにはいられなくなるのだ。相手が私のことを、厳しいフィードバックを与えても耐えられ
るだけの強さと、能力と、客観性を備えた人間だと見てくれているとすれば、それは私が尊重されていると
いう何よりの証となる。私に対してあえて反対意見を述べないひとは、私のことを繊細で、神経過敏で、
弱々しく、傷つきやすい人間と見なしているのだ。私に反論しようとする大学院生がほとんどいないと気づ
いたときには、大いに屈辱感を味わったものだ。いったい私を何だと思っているのだろう。議論に耐えられ
ないほど弱々しい人間だとでも言うのか、と。そこで私は、院生たちに自分の気持ちを伝えたのだが、これ
が双方に良い結果をもたらすこととなった。彼らに対する印象が大きく改善されたことは言うまでもない。
相手に対してフィードバックをしたいと思うのは、相手がそのフィードバックを受け入れて、今まで以上により良い方向に行動してもらえると期待できるときだ。フィードバックしても、そnフィードバックが何ら効果を与えないとか、まったく受け入れず、聞く耳持たずになるのであれば、フィードバックなんかもうしない。
エンジニアの育成も同じだろうか
それでは、エンジニアを養成する正しい方法とは何なのだろう。少なくとも、新しいことに正
面から立ち向かう、ものごとを改善する、という意味での創造性を身につけさせねばならない
ことは明らかだ。……できれば(なぜなら、これが最も望ましいことだから)新規性や変化を
楽しめるような人間に育てたい。教育はもはや、単なる学習過程ととらえるわけにはいかない。
それが教育の本質だと考えるのも誤りだ。個性形成、人間形成のための一連の訓練が教育なの
であり、この傾向は年々強まってきている。……いかなる人間に育てるべきか、いかなる哲学
を教えるべきか、いかなる個性を形成すべきか。これこそが教育の本質である以上、教育論の
焦点となるべきものは、生産物、技術上の革新、芸術作品、芸術上の革新などではないはずだ。
創造の結果だけでなく、創造の過程、創造的態度、創造的人間というものにもっと関心を寄せ
る必要がある。
エンジニアだからといって、技術や、その技術によって造られる生産物についての教育だけですまなくなってきているという。そうした技術はいつまでも使える物ではなく時代によって変わっていくものである。変わっていく技術を追いかけていくだけでなく率先して新しいものを生み出そうとする行動をする人間を育成しなければいけない。
それまでに作られているものをなぞるだけなら人工知能というコンピュータを内蔵する機械にやらせればいい。これからの時代を切り開いていくのは、新しいものを創造し、創造したものの価値を判断できる能力である。芸術には美的感覚というのあある。人間が何故それを美しいというのかはなかなか分からないものでもあるし、時代によって美しいという基準は変化していく。
流行を作るファッション業界は、来年はこうなるとう業界内での設定がある。それがトップファッションから、大衆に広まっていく。
新しいゲームソフトが爆発的に売れたりする。そうした新しいものを面白いと思うかどうかを誰が判断できるのか、たまたまヒットしたのかもしれない。
ヒットを続けていくコツというのもあるかも知れない。
それは、人一倍研究する、たゆまぬ努力だろうか。イチローのように...。
マズローの欲求の5段階というのは、かなり有名になっていると思われる。
そのマズローの文献を集めて、さらに、マズローに関係の深い学者の言葉を集めたのが本書である。
なかなか読みにくい難解な文章でかつ分厚く400頁を超える本だったので、読み終わるのに1ヵ月近くかかった。
ちゃんと理解するには何度も読み返してみないといけなさそうなので、気になったフレーズを少しだけ引用しておこう。
これはマズローが書いた部分ではないのだが
アンドリュー・ケイがマグレガーをマズローに引き合わ
せたのは1960年のことであった。ケイがわれわれに語ったところによると、彼はボストンのマズロー
宅を訪問中、マズローとマグレガーが一面識もないことを知ったのだという。二人が進歩的経営管理をテ
ーマに1年近くも文通を続けていながら、いまだに顔を合わせていないということがケイには意外に思え
た。「私はエイブの顔を見据え、コートを取ってきて車に乗るよう言いました。それから二人でマサチューセッツ工科大学
のマグレガーの研究室に向かったのです」と、ケイはそのときの様子を語っている。
その日が二人の大いなる論争の始まりであった。鏡に映った自分の姿を見つめ、以下の質問を自らに問
え--二人は亡くなるまで、すべてのリーダーたちに、こう訴え続けたのである。これらの質問事項は半
世紀も前に考案されたものであるが、いまでもリーダーが第一に考慮すべき点であることに変わりはない。
一、人間は信頼に値すると信じているか。
二、人間は責任や義務を担おうとするものであると信じているか。
三、人間は仕事に意義を求めると信じているか。
四、人間は生まれながらに学習意欲をもっていると信じているか。
五、人間は変わることに抵抗しないが、変えられることには抵抗すると信じているか。
六、人間は怠惰よりも働くことを好むと信じているか。
以上の質問に対する回答結果が、回答者のあらゆる行動に影響を及ぼしているのである。われわれは何
人もの企業幹部に、これらの質問をぶつけてみた。その結果、多くの人が自分の人間観を充分時間をかけ
て検討したことがないという、驚くべき事実が判明したのである。
企業の経営者の人間観、それが経営の方向を決めるので、そこを深く追求しておかなければいけない。
ということのようである。ワンマン経営ならなおさらそうであろうが、ワンマン経営でなくても、組織をどう形作るかを考えた時に考え方が同じ方向を向いている人間を集めることになるのではないだろうか。
このマグレガーとマズローに関する記述が別の所にもある。
マグレガーは人間に対する見方を二つに大別し、それぞれをX理論、Y理論という言葉で呼んだ。実は、
彼のこの考え方の基礎となったのがマズローの欲求階層説であった。マズローの理論はマグレガーの研究
によって広く知られるようになった、と言う者も多い。マズローは手記の至る所でマグレガーに言及して
いる。
……
マグレガー自身、次のように述べている。「どのような方法で人間を管理するのが最も効果的だと仮定し
ているか(暗黙の仮定も含む)。これが経営トップに対する最も重要な問いかけである。経営陣がどのよう
な仮定に立って人材を管理しているかで、企業の性格が決まるのである」
読者の仮定は、以下のどちらだろうか。
一、ふつうの人間は、働くことよりも働かないことの方を好む。管理者や組織は、こうした人間を統制し、
指示を下し、それ相応の働きをするよう管理しなければならない。彼らは指示されることを好み、仕事に
関しては何よりも安全性を求めている。彼らには、野心も偉大なことを成しとげようという欲求も備わっ
ていない。
二、ふつうの人間にとって、仕事は休息や遊びと同じく自然なものであり、皆働くことを望んでいる。や
りがいのある目標だと思えば、たいていの人間は自己統制しつつ自発的に仕事に取り組み、積極的に責任
を引き受けようとする。彼らのひたむきな態度は恐れからくるものではなく、報酬、とりわけ達成感や自
己実現といった目に見えない報酬によって導かれたものである。平均的な人間には、未開発の創造性や独
創性が大いに備わっている。
一と二は、それぞれマグレガーがX理論、Y理論と名付けた仮定に相当する。
……
したがって、マズローやマグレガーの理論に賛同する者にとっての課題は、人々を動機づけることでは
なく、動機づけられた人々が最大限の貢献をしようと進んで努力するよう、環境を整えることである。組
織の方針や業務手順の見直しが、その第一歩となるだろう。それらは、われわれの人間観がどのようなも
のであるかを雄弁に物語っているのだ。
X理論で統治されている企業で、フレックスタイム制を導入すると、どうなるか?
皆、それまで定時とされていた時間には出社せず、どんどん遅い時間に出社するようになって、マネージメントは、「どうすれば、定時には皆が会社に来ているようになるのか?」を議論するようになる。
Y理論で統治されている企業では、そもそもそんな議論は必要ない。皆、働きたいだけ働いて実績を残しているのであるから、そこは論点ではなくなる。
人々は、相手のことを思っていろいろ忠告をする場面がある。マズローはこんなことを言っている。
…… 認めるべきことや否認すべきことがあれば、そのことを自由に表明することこそ愛情表現であ
り、兄弟姉妹に対する義務である。私の唱える健康心理学の中でも、このことを明確に主張していくつもり
だ。つまり、啓発されて進歩的な人間は、どんな相手--特に子供--に対しても、これをやってくれて嬉
しかった、あれはすばらしかった、あの行動は良くなかった、あんなことをするとはがっかりだ。残念に思
う。というような意見を自由かつ正直に述べるということだ。
……
アメリカでは、このような態度でひとに接することはほとんどない。ひとを批判するのは自分が怒ったと
きだけだ。相手を批判し、フィードバックを与え相手に内省しなおしてもらう義務というものは、通常、愛
の範疇に入っていないのである。だが、この考え方は改めるべきだろう。面白いことに、耳に痛いフィード
バックが行えるようになると、フィードバックの与え手と受け手双方の愛情が増すのである。遠慮のないフ
ィードバックを受けた者は、しばらくの間傷つくかもしれない。だが、結果的にはそのフィードバックに助
けられ、感謝せずにはいられなくなるのだ。相手が私のことを、厳しいフィードバックを与えても耐えられ
るだけの強さと、能力と、客観性を備えた人間だと見てくれているとすれば、それは私が尊重されていると
いう何よりの証となる。私に対してあえて反対意見を述べないひとは、私のことを繊細で、神経過敏で、
弱々しく、傷つきやすい人間と見なしているのだ。私に反論しようとする大学院生がほとんどいないと気づ
いたときには、大いに屈辱感を味わったものだ。いったい私を何だと思っているのだろう。議論に耐えられ
ないほど弱々しい人間だとでも言うのか、と。そこで私は、院生たちに自分の気持ちを伝えたのだが、これ
が双方に良い結果をもたらすこととなった。彼らに対する印象が大きく改善されたことは言うまでもない。
相手に対してフィードバックをしたいと思うのは、相手がそのフィードバックを受け入れて、今まで以上により良い方向に行動してもらえると期待できるときだ。フィードバックしても、そnフィードバックが何ら効果を与えないとか、まったく受け入れず、聞く耳持たずになるのであれば、フィードバックなんかもうしない。
エンジニアの育成も同じだろうか
それでは、エンジニアを養成する正しい方法とは何なのだろう。少なくとも、新しいことに正
面から立ち向かう、ものごとを改善する、という意味での創造性を身につけさせねばならない
ことは明らかだ。……できれば(なぜなら、これが最も望ましいことだから)新規性や変化を
楽しめるような人間に育てたい。教育はもはや、単なる学習過程ととらえるわけにはいかない。
それが教育の本質だと考えるのも誤りだ。個性形成、人間形成のための一連の訓練が教育なの
であり、この傾向は年々強まってきている。……いかなる人間に育てるべきか、いかなる哲学
を教えるべきか、いかなる個性を形成すべきか。これこそが教育の本質である以上、教育論の
焦点となるべきものは、生産物、技術上の革新、芸術作品、芸術上の革新などではないはずだ。
創造の結果だけでなく、創造の過程、創造的態度、創造的人間というものにもっと関心を寄せ
る必要がある。
エンジニアだからといって、技術や、その技術によって造られる生産物についての教育だけですまなくなってきているという。そうした技術はいつまでも使える物ではなく時代によって変わっていくものである。変わっていく技術を追いかけていくだけでなく率先して新しいものを生み出そうとする行動をする人間を育成しなければいけない。
それまでに作られているものをなぞるだけなら人工知能というコンピュータを内蔵する機械にやらせればいい。これからの時代を切り開いていくのは、新しいものを創造し、創造したものの価値を判断できる能力である。芸術には美的感覚というのあある。人間が何故それを美しいというのかはなかなか分からないものでもあるし、時代によって美しいという基準は変化していく。
流行を作るファッション業界は、来年はこうなるとう業界内での設定がある。それがトップファッションから、大衆に広まっていく。
新しいゲームソフトが爆発的に売れたりする。そうした新しいものを面白いと思うかどうかを誰が判断できるのか、たまたまヒットしたのかもしれない。
ヒットを続けていくコツというのもあるかも知れない。
それは、人一倍研究する、たゆまぬ努力だろうか。イチローのように...。
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