『金田一先生のことば学入門』

『金田一先生のことば学入門』 金田一 秀穂 中公文庫
金田一といえば、私立探偵の金田一耕助、その孫の金田一少年かもしれない。

金田一耕助の名前の由来になる言語学者の金田一京助の孫が著者の金田一秀穂氏である。
代々、言語学系の学問を研究し、著書や字典も多い。

さて、その「言葉」についてである。

 ことばは音か、それを文字化したものによって伝えられる。音は、いくつかの
子音といくつかの母音の組み合わせで出来ている。もし、子音と母音の組み合わ
せが出来れば、他の方法でも、言葉として成立するはずである。例えば、私たち
には、味覚という感覚がある。これを使ってことばに出来ないだろうか。
 甘い、辛い、すっぱい、苦い、塩辛い、を、それぞれア段、イ段、ウ段、エ段、
オ段とする。ア行は調味料、カ行は焼き物、サ行は煮た物、タ行は和え物、ナ行
は蒸し物、ハ行は炒め物、マ行は揚げ物、ヤ行は漬物、ラ行は飲み物、ワ行はお
酒というふうにする。
 すると、砂糖、胡椒、カレー味サトイモの煮っ転がし、苦いキュウリ和え、
レモンジュースを相手に次々と食べさせると、「アイシテル」を伝えたことにな
る。これに対して、「ワタシモ」を伝えたければ、お酒を飲ませ、次に砂糖のか
かったトマト、胡椒入りの鯵の煮物、塩辛いエビフライを食べさせればいい。た
ぶん、相手は大喜びをするにちがいない。

これは、一種の暗号表みたいなものだ。

暗号表を隠して、レシピでメッセージを伝えるなんていうのは、ミステリーになりそうな話だ。

ちょっとページを飛ばして。
ハナモゲラについて。若い人は、なに?それだろう。私もそれほどTVで見た印象がないのだが、

 40年あまり前には大橋巨泉の「ハッパフミフミ」、30年
ほど前にはタモリや山下洋輔の「ハナモゲラ語」があった。
 私たちは言葉から意味を奪って、その音だけで伝わる何事かを楽しむというこ
とをときどきするらしい。めちゃくちゃであればあるほど、うれしくなる。子ど
もの破壊衝動と似ている。
 ハナモゲラ語が流行ったとき、ある言語学者が、「いくらめちゃくちゃ語であ
ろうとしても、しかし、それはすべて日本語であって、本当のめちゃくちゃ語で
はないのだ」ということをゴールデン街で、ハナモゲラ関係者に言ったことがあ
るらしい。「音韻体系が、日本語なのだからだめで、本当にめちゃくちゃにした
かったら、舌打ち音とか吸気音とかを入れたらいい」と言ったとか。ごく簡単に
言ってしまえば、「ハナモゲラ語」はすべてカタカナで表すことが出来てしまう、
ということなのだ。カタカナで表せる限り、それは日本語の音から逃れていない
ことになる。
 しかし、約10年前にはB-DASHというグループが現れて、この人たちの歌詞
はカタカナでは書けない。なんとなく英語のような音なのだが、しかし全く英語
ではない。奇妙な歌詞なのだ。意味はない。「それっぽい音を出している」だけ
なのだ。意味を持つかのようで、実は中身のない言葉が氾濫するより。いっそ、
音だけにして、余計なことを考えないですむようにしてもらいたい、というアナ
ーキーな言葉の感覚があるのだろう。

カタカナで書けるなら日本語だと、意味がどうあれ、日本語に取り込まれたらカタカナで表現できてしまうとは成程である。

音に含まれる、意味について

「イピピ」と「オポポ」という言葉があったとする。これだけでは、どちらも意
味がわからない。しかし「イピピとオポポは夫婦です」と言われると、どちらが
夫でどちらが妻だろうか。たぶん、多くの読者は、イピピが女で、オポポが男で
あると思うに違いない。
 では、イピピとオポポが兄弟であるとするとどうなるか。これも、一致して、
オポポが年上であると答える人が多い。
 いろいろな教室で、私は実験してきたのだが、すべて答えは同じだった。さま
ざまな外国人を相手にした教室でも、この結果にあまり大差はない。ラテン系
の言語では、語尾の音によって男女が決まってしまうことがあって、多少結果が
異なるけれど、ほとんど普遍的と言っていい。すなわち、A音やO音、濁音系は、
大きいとか男性とか強いとか悪いとかを示す。I音や清音系は、小さいとか女性
とか弱いとか善いとかを示してしまう。

母音が、ものの性質を区別しているというのは、面白い。

子供が生まれたら、名前をつけるが、男の子と女の子で、だいたい、こっちかなと判る名前が多い。どちらの性別にも使われる名前もあるし、漢字が共通でも読み方が変わることで、男女が分かれることもある。

文になってくると、またまたやっかいなことがある。

 一つの劇に登場する主人公は、普通一人しかいない。二人いる場合はカップル
とか夫婦である。二人はたいてい同じような行動をする。だから、物語を聞く人
は、あまり困らずに筋書きを追っていける。二人がまったく別々に動いているよ
うに始まっても、いつかこの二つが一つになるのだと安心して読み進んでいける。
 一つの文に、二つの中心があることは、あまりいいことだとは思えない。どち
らかが主になり、どちらかは副になる。そうしないと落ち着かない。少なくとも
印欧系の言語ではそうなっている。
 日本語は、実はそうではない。中心のことは、分かりきっていれば、簡単に省
略される。いわゆる無主語文、というのがありうる。また、二つ以上の中心が存
在することもある。
「象は鼻が長い」という文を、聴かれたことがあるだろうか。日本語の文法学が
生んだもっとも有名な文の一つだろうと思われる。この文は、日本語において主
語とは何かという大議論を生むきっかけになった。「象」が中心なのか、それと
も「鼻」が中心なのか。
 例えば、この文を英語に直そうとすると、一筋縄ではいかない文だということ
がすぐに判る。何を主語にしていいか判らないからだ。結局「象の鼻は長い」と
いうような文章に変えなければならなくなる。しかし「象は鼻が長い」と「象
の鼻は長い」というのは、微妙に意味が異なるだろう。

象と鼻の関係が、包含関係になっているにもかかわらず、どちらもが、自分が中心であると主張する。こんな文を日本語では普通に使われている。

中心がいくつもあるような言葉を使いこなせているので、世の中の中心が複数ある体制や政府や宗教感など、そうした構造において、特に違和感もなく簡単に受け入れてしまうということなのだろう。

言葉の構造は、文化の構図にも応用され、江戸時代は、公卿と武家の二つの政治を受け入れてきた。そうしたものが、日本語にも影響しているのか、日本語がそうだったから、違和感なくそういう体制を生み出していったのか。

学問の領域を超えて考え始めると、さらに面白くなる。






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この記事へのコメント

2019年08月31日 18:12
こんばんは

金田一さん、いっぱいいてはりますね。
繋がってるんですね。
ことば学、面白そうですね。
2019年09月02日 06:34
おはようございます。
ことばというのは、ある意味厄介なものですね。日本語で「象は鼻が長い」というのは、英語では「象の鼻は長い」と訳さざるを得ないとのこと。
主語は象か鼻か…。
ことばの世界は考えるほどに難しいと思います。