『経済学・哲学草稿』

『経済学・哲学草稿』 カール・マルクス 光文社古典新訳文庫
先日紹介した本でぐっちーさんが「マルクス、必読です」と言っていたので、さっそく読んで見ることにした。

マルクスと言えば「資本論」でしょ。
というところなんですが、資本論の前に書かれた草稿があるというので、まずはここから読んでみた。

草稿は3つに分かれている。
キーワードとしては「賃金」「資本」「地代」「疎外された労働」や「私有財産」「欲求と窮乏」「分業」「お金」などである。
労働者が提供する労働とその対価としての賃金。労働はしてないがそこから利益を得られる私有財産、弁証法とか哲学に対する批判もでてくる。欲求がでてくるのは人の心についても考えていたということで、草稿を読んでもなるほどグッチーさんが必読と言っている意味がわかるような気がする。

しかし、その内容は、かなり理解するのが難しい。なにせ文章が長い。文庫本で1文が4行以上にわたるのは、なかなかお目にかからない長さだ。

さて、「賃金」の一節をみてみよう

「特殊な才能と長期の準備教育を必要とする仕事は、全体として収入が多くなるが、
だれでも短期間に簡単に身につく単純作業に相応する賃金は、競争が激しくなると下
落するし、下落せざるをえないと言える。そして、目下の労働組織の状況では、単純
作業に類する労働が圧倒的多数を占めている。さて、専門職の労働者が50年前に比べ
て7倍の収入を得、単純作業の労働者が50年前と同じ収入を得ているとすれば、二つ
の収入を平均した結果は4倍の増加となる。ところが、一つの国に専門職が1000
人、単純労働者が100万人いるとすれば、99万9000人は50年前より状態が良くなっ
たとはいえず、生活必需品の価格が上がっているとすれば、状態が悪くなったといわ
ねばならない。足して2で割る上っ面の平均値計算をする人は、人口の大多数を占め
る階級のことを直視したくないのだ。さらにいえば、賃金の多少は労働者の収入を評
価する際の一要素にすぎず、収入の算定にはその安定した持続がぜひとも考慮に入れ
られねばならないが、いわゆる自由競争を原理とする社会では、動揺と停滞がたえず
くりかえされ、安定した持続は望むべくもない。最後に、以前といまとの通常の労働
時間にも注目しなければならない。たとえば、イギリスの木綿工場の場合、まさしく
人手を省く機械の導入された25年前以降において、企業家の営利欲ゆえに、一日の労
働時間が12時間ないし16時間に延長されている。そして、一国や一産業部門での労働
時間の延長は、金持による貧乏人の無条件搾取の権利がいまだあらゆる所で承認され
ているがゆえに、多かれ少なかれ他国や他部門に広がらざるをえなかった。」(ヴィルヘ
ルム・シュルツ『生産の運動』1843年65ページ)

第一稿が書かれた前の年の本を引用した部分である。孫引きになるが、引用部分を全文載せた。
このような引用をしながら、草稿はまとめられている。

それにしても、この賃金の論とか労働時間の考察は、現代の機械化においてもそれほど変わっていないように思われる。人間が定義した1日は誰にとっても24時間しかない。その中で12時間~16時間を労働に割いている。時間短縮が叫ばれる現代への警鐘は100年以上、なんら役に立っていないということなのか、経済の根本原理はそうそう変わっていないということか。

第二草稿は、私有財産に関するものだ。こんなことが書かれている。

 しかし、労働の発展は必然的に、自由放任の、工業として自立した工業を生み出す
し、自由放任の資本を生み出す。工業が敵を支配する力を発揮するのは、それまで主
要な労働を土地と土地を耕す奴隷とに委ねていた農業が、現実に工業として成立する
ときだ。奴隷が自由な労働者に--雇われ者に--変わるとともに、地主自体も工業
主に--資本家に--変わるのだ。この変化は、当初は、借地人をあいだにはさんで
起こるのだが、借地人とは地主の代理人であり、地主の秘密を明るみに出すものだ。
借地人の存在によって初めて、地主は国民経済学的存在に--私有財産の所有者
に--なるのであって、というのも、かれの土地の地代は、借地人の競争によってし
か存在しないからだ。だから、地主は、本当をいえば、すでに借地人の姿を通してご
く普通の資本家になっていたのだ。そして、その秘密は公然化せざるをえないので、
農業を経営する資本家--借地人--が地主となるか、地主が資本家となるかだ。借
地人が工業に手を出して金をもうけるのは、地主が工業に手を出して金をもうけるこ
とだ。前者の存在が後者の存在を定めるのだから。

土地と、資本と、工業の関係を論じているが、少子化の日本では、このパラダイムが変わろうとしている。過去に、土地を持って農業を経営していた資本家は、農業の制度改革によって、小作人に土地が分配された。そのために小さな田畑の所有者が沢山増えた。
その小さな土地の所有者は、工業化、都市化とともに、農地を手放し、大金を得た。
それらの土地が現在の工業団地だったり、住宅地になっている。

そして、いまや地方の農地は遊休化して、工業団地にも住宅地にもできない(作っても入り手がいない)ものになろうとしている。
こうした土地を相続したものは、どうしようもなく、放置されて、ますます、価値は下がる。

第三草稿からは、人間に関して

 これを主体に即してとらえると、こうも言える。人間の音楽的感覚は音楽によって
初めて呼びさまされるので、非音楽的な耳にとっては、最高に美しい音楽でさえ、い
かなる意味ももたないし、音楽として対象になることがない。というのも、わたしの
対象はわたしの本来の能力の一つを証明するものにほかならず、わたしがわたしの本
来の能力を主体的能力として自覚するかぎりでしか、対象はわたしにとって存在しな
いからだ。対象がわたしにとって意味をもつかどうかは、(当の対象にふさわしい感覚
にたいしてしか意味をもたないのだが、)わたしの感覚が対象世界にどこまで入りこむ
かによって決まってくる。だから、社会的人間のもつ感覚は、非社会的人間のもつ感
覚とは別ものである。人間の本質が、対象の形を取った富を積み上げるなかで初めて、
主体的で人間的な感性のゆたかさが形作られ、生み出される。そのなかで初めて、音
楽的な耳が、あるいは、形の美しさをとらえる目が、要するに、ものごとを人間的に
享受しうる感覚、人間本来の五感のみならず、いわゆる精神的な感覚や実践的感覚(意志
や愛など)までもが--一言で言えば、人間的な感覚、ないし、感覚の人間性が--
それに見合う対象の存在によって、つまり、人間化された自然によって、初めて生じ
てくるからだ。五感の形成は、これまでの世界史の全体によってなしとげられた成果
なのだ。

人が五感で感じる、感じ方は、一人ひとりそれぞれである。そして、

自分の感覚は他の人間を通して初めて人間的感覚として自覚される。が、自然
こそは、人間の学問がまず目の前にする対象だ。人間の最初の対象--つまり、人
間--は、自然であり感覚であって、人間のさまざまの感覚的能力は、自然的対象の
うちにしか対象的に実現されず、自然科学のうちにしか自分の姿を認識することがで
きない。思考そのものの要素--思想の形を取る生命発現の要素--にほかならぬ言
語が、そもそも感覚的な自然なのだ。自然が社会的現実としてあることと、人間的な
自然科学もしくは人間についての自然科学とは、内容が同じなのだ。

なかなか理解しにくい文章である。

このあと、人間の科学、自然科学が、富とゆたかさに関係してくるという。

人間が感じ取る感覚のように、豊かであるかどうかは、個人の感じ方による。

第三草稿は、さらに、「弁証法」「欲求と窮乏」「分業」「お金」と話が続いていく。

分業は機械化されていくシステムそのものであり、ものを造る過程を分割して部分だけをそれぞれの作業者に割り当てていく。そうすると単純な労働になって労働コストも小さくなっていくので、生産効率が上がっていくというのだ。

最終的には、生産ラインから人間はほとんどいなくなって、監督者だけになる。
現在の無人化工場そのものだ。

田舎の工業団地にこのような無人化工場を誘致しても、雇用は増えない。
管理者が若干移住してくるだけで、生産ラインは動くからである。

マルクスはそんな未来も予測していたのか。資本論を読んでみたくなってきた。






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この記事へのコメント

2019年07月13日 14:59

(気持ち玉代わりです)
2019年07月14日 00:35
こんばんは。

コメントいただきありがとうございました。
早く気持ち玉復活するといいですね。

マルクスですか。
資本論の前に書かれた草稿なんですか。
それは興味ありますね。
2019年07月17日 00:06
 ナイス 
気持ち玉代わりです
時間がなくてごめんなさい。
コメ返はお気になさらないでくださいね。
2019年07月18日 13:36
こんにちは♪
ナイスです(^_-)-☆

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